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日本語の代わりに英語を採用しよう

一橋大学大学院教授イーヨソスク氏によれば、ここでの「日本の言語」は、日本古来の「日本語」とは違うという(『「国語」という思想−近代日本の言語認識』、一九九六年)。そう考えると、日本の国の言葉として日本語の代わりに英語を採用しようと森が提言したという証拠はどこにも見当たらない。そもそも、森有礼というと、伊藤内閣における初代文部大臣だと思い込んでいるために、我々はついつい彼の「日本語廃止論」、「英語国語化論」が国の言語・文化・教育政策として提示されたかのように誤解しがちだが、すでに見た言語改革の提言は、森が二十代半ばにアメリカ人向けに試みただけのものである。事実、文相時代の彼は、伊藤内閣の「教育の国語主義化」を受けて、「邦語を以って各学科を教育すべし」との「外国語制限論」まで唱えている。もっとも、自分が時代の担い手であるとの自意識のゆえか、森がやたらと提言や改革を好んだことだけは事実のようで、やはり在米中(一八七二年)に執筆した『信仰自由論』では、ときの美への意見書の体裁で、信仰の自由を保障する法律を制定すべきであるとの論を展開している。その原文の一部を見てみよう。この時代に日本人が書いた英文としては最高級のものであり、その質から言えば、むしろのちの英語達人たちの文章に近い。新渡戸、岡倉の域には達していないが、語調の激しさ、片意地を張ったような筆遣いが、どことなく内村鑑三(一八六一〜一九三〇。キリスト教指導者・伝道者)の英語を思わせる。この英文の信仰論が、日本政府にどのように受け止められたのかは定かでない。だが、言語改革にしろ、信仰の自由を保障する法律の制定にしろ、国策に関わるぞのような重要な問題をもっぱらアメリカ人相手に議論し、(少なくとも体裁上は)日本人相手に英語で論じる若き日の森の姿に戯画的なものを感じるのは、私だけだろうか。少なくとも英語の使い方だけに限って言えば、やや社会的文脈を見誤ったのではないかと思われる。一八八五(明治一八)年、森は第一次伊藤内閣の文部大臣となり、学校体系の整備に尽力した。だが、若いころからの英語修業と留学によって培った卓越した英語力を、真の文化発信に用いることもないまま、八九(明治二二)年三月、刺客の凶刃に倒れ、四三年の生涯を閉じた。
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