女性の心理と下着の関係を考える研究プロジェクトを始めるにあたり、日本社会に下着が導入され、その後、どう普及していったのか、下着の文化や市場動向についての歴史的な変遷を確認しておくことにした。振り返りの中に、これから検討すべき課題が見えてくると考えたからである。そのため、メーカー側のスタッフが資料室に保管されていたさまざまな資料を調べ直し、それらをつなぎ合わせて戦後の日本における下着の歴史を再構成してくれた。まずは、そのアウトラインをご紹介したい。日本の。洋装事始め”として1883(明治16)年に完成した鹿鳴館での舞踏会が紹介されることが多い。しかし、ここで西洋のドレスを着用して社交ダンスに興じたのは政府高官や貴族、外国公使の夫人や令嬢といった、きわめて限られた階層の人々であった。「当時の貴婦人たちにもてはやされた、これらのコスチュームに必要なコルセットやペチコートはフランスから輸入されるようになった(『日本洋装下着の歴史』日本ボディファッション協会編、文化出版局、1987)」ようだ。ドレスどころか下着ですら、特殊な非日常の世界における、きわめて高価な衣装だった。ただし、この時期、コルセットはあったが、ブラジャーはまだ、どこの国にも存在していない。ブラジャーという下着が初めて考案され、欧米に広まったのは第一次大戦(1914〜1919年)の頃とされ、日本では大正3年から8年にあたる。当時、日本でも女性の職場進出が始まっており、大正9年には“職業婦人”という新語が生まれた。カフェーの女給やバスガールなど、職場でのユニフォームとして洋装が登場するのに加えて、大正末期には“アッパッパ”というワンピースの簡易服がはやる。大正13、14年頃に、モデルだった淡谷のり子氏が知人に洋装を買ってもらった時のことを、回想記事で次のように述べている。「丸ビルの二階に行って、オーバー、ワンピース、靴、ストッキング、スリップ、ブラジャー、全部そろえてくれました。すべて舶来品です。洋服だけは舶来生地で作って、オーバーも英国の生地で作りました(『ファッションと風俗の70年』熊井戸立雄編、婦人画報社、アウターウェアだけでなく下着もすべて輸人品でそろえたという実情が語られている。昭和に入ると洋装の大衆化が徐々に進み、「東京の銀座や大阪の心斎橋の歓楽街にモダンボーイやモダンガールが閑歩する(『日本洋装下着の歴史』日本ボディファッション協会編、文化出版局、1987)」。若者のオシャレの先端である、いわゆるモボーモガは昭和2年頃から数年間が全盛期とされるが、まだ下着まで洋装化できたとはいえず、その現実は「外は洋装のモダンガールも、内は和装の腰巻き姿という内外アンバランスの時期がかなり続く(同)」ことになる。洋装下着の国産第1号は、1929(昭和4)年頃に松岡錠一氏が、知人のすすめによってブラジャーとコルセットの製造を始めたのが嗜矢とされている(同)。モボ、モガの流行と同時に国産のブラジャーが登場したことになるが、「昭和五、六年頃に洋装下着を買う女性は、洋行帰りの婦人と女優が中心だった(同)」という現状であり、普段は着物(和装)で過ごしている一般女性に西洋下着はほとんど普及していなかった。そして、1931(昭和6)年の満州事変以降、国内は戦時体制へ移行していき、華やかな洋装文化はその芽を摘み取られてしまう。ちなみに、戦前のブラジャーは、「乳房バンド」「乳房ホルダー」「乳押さえ」などと呼ばれ、バストを押さえつけてシルエットを「すっきりと」見せるものでしかなく、あるいは授乳期の衛生用品として、薬局で販売された例もあったという。ブラジャーがバストのふくらみを美しく演出するファッション製品として一般化していくのは、戦後のことになる。
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